オタルナイ運上屋から弁天社地へ

   海上より望んだオタルナイの図-松本吉兵衛 筆 
   海上より望んだオタルナイの図-松本吉兵衛 筆 

 

 

写しのため見ずらい図ですが、当時の様子がわかるオタルナイ運上屋から山の上坂~信香町付近までをかきあらわしたものです。これを書いた松本吉兵衛は、秋田藩士で安政六年(1859年)樺太の陣屋へ赴任する途中に各地の風景を描いて「蝦夷地旅行日記」を著していました。(阿部達郎氏模写)海上よりオタルナイを見た図で、正面がオタルナイ運上屋。右側の海に「立岩」が三つそそり立っており(現 かま栄本社付近)岩のまわりには岩礁が散在している様子が書かれています。古文書によると航行をかなり阻んだ岩だったようです。図の左側(現 メルヘン交差点から三本木急坂)には、三本木急坂の由来になった三本の赤だもの木が描かれています。(写真・図をクリックすると拡大します)

 

弁天社地を探す

海陽亭 雑木林の中は弁天社地跡の面影
海陽亭 雑木林の中は弁天社地跡の面影

場所請負人である近江商人や福山地方の多くの人が移住してきたため

信仰・風俗習慣も同地方にならったようです。

豊富な財力をもった請負人たちはその財を持って道路や土地の開墾、今

でいう公共事業を行い町を拓いていきました。オタルナイ場所の請負人

であった恵比寿屋岡田半兵衛が運上屋より丘陵を越えて延嘉(信香町)

への新道を拓きこれを山ノ上町と呼びます。「地図参照」

また自己の崇拝する弁財天社殿建築をかねて道路の築造の許可をとった

ともいわれています。

稲荷社・恵比寿社・金比羅社はいずれも商売繁盛・豊漁・海上安全

をいのるためのもの。これらの社は運上屋のある海岸最寄の土地に

営まれていました。

稲荷神社(現メルヘン交差点より入舟町へ)は現在ある場所と同じ

場所にあったようです。

弁天社はオタルナイ運上屋の南方の山上にあり、金比羅社は弁天社の

境内にあったとされています。

弁天境内に地蔵堂もあり小社は壮観だったようですが火災にあい焼失

古地図によると弁天社があったところは、現在の海陽亭のある山の上だ

ったと思われます。(古地図には弁天社地と記されている)

現在の海陽亭の場所だとわかり訪ねてみると雑木林や入り口から建物へ

の坂道などかすかに当時を感じることができます。車が入りやすい

ように坂道になっている入り口からは地蔵堂へ行く石段だったのでは

ないかと想像できます。

 

松浦武四郎 「西蝦夷日記」より

「弁天社、地蔵堂石段数級を上る。爰(ここ)より諸方を眺望するに

風景宜しく一眸(ひとめ)に石狩迄よく見ゆ」

 

高島には、現在もある弁天岩。そこが弁天社となり今も鳥居があります。

岩の周りには、現在も船つき場あり、当時の名残のままです。

高島の運上屋の史跡はありませんが、この弁天岩の正面に運上屋があった

という文献や絵図が残っており埋め立ての前の現在の港の付近だと思われ

ます。

2010.5.19